あやめが丘

「あやめが丘」の名前の由来

三原 源二郎
(昭和15年~19年国語教師、前口之津町長)

「あやめが丘」この言うにやさしい名称は現高校の所在する一帯の地となっているが、字図にも土地台帳にも記載されていない。
今は昔語りになるが、偶然この名称の由来を聞く機会があった。

田口鷹吉翁と雑談している時、話がたまたま「君、あやめが丘という名称が生まれたわけを知っているか」という問いに、勿論私は知るわけもない。
「口之津港を昔からあやめが浦というのは君も知っているだろう。手芸学校が県立に移管された当座、初代校長浜野定太郎君がやって来て、学校のある丘をなんとか名付けたいものと思っているが、良い名称はないでしょうか」というので、僕は即座に「長崎港を一名“鶴の港”というように口之津港もまたの名を“あやめが浦”というから、そのあやめが浦を一望のうちに見下ろす風光の丘であるから、“あやめが丘”とはどうだ」といった。
浜野校長は、とたんに横手をうって「ウン、これは良い名だ。あやめが丘!あやめが丘としよう」ということになり「あやめが丘」が生まれた秘話をお聞きした。

其後浜野校長は、学校所在の丘陵を「あやめが丘」と命名宣言し、続いて生徒の胸間を飾るイニシャルバッヂもあやめの花と女の字を組合せて図案したものを作り、校章ともなした。
この校章を金銀線で刺繍した見事な校旗もあるはずである。

「あやめが丘」の名付親、田口鷹吉翁は口之津・加津佐両村組合立口加高等小学校として傍ら手芸学校長も兼任していられたが抜群の校長として声明があり、後口之津町長として二十四年の長期の自治体首長をつとめ昭和四年に退任していられる。
町長晩年の仕事として手芸学校を県立に移管する事に非常な努力をされたが、当時は郡に男女各一校の中等学校を置くとの不文律があり、早く島原高等女学校があり、県立移管については当初非常な難関につき当り苦労されたが、加津佐町出身栗原大島太郎県議、口之津出身故園田信義県議の方々の格別の御努力よって数年がかりで成功されたのであった。

田口翁の苦心経営による手芸学校その後身女学校(高等学校)が、あやめが丘に高等教育の学園として、その偉容を誇っているのを見るつけ先覚者の苦心と功労が偲ばれてならない。

※この文章は口加高校創立七十周年記念誌の中にあります。